|BOM HOME PAGE | ご注文|NEWSLETTER INDEX |
I BACK I
Close this Window
ブルーグラス45 って 何?
ロスト・シティー

 1965年に神戸の三宮に小さなコーヒーハウスが誕生した。 ロスト・シティーという名前が付けられた。
それは日本でもかなり初期のコーヒーハウスだった。 コーヒーハウスとは当時アメリカのフォークムーブメントで生まれたライブ音楽を聞かせる小スペースで当時としては画期的な出来事で有った。
ロストシティーのあった土地のオーナーは郭光生氏。 早稲田大学在学中にフォーク・リバイバルに触れ、いち早くニュー・ロスト・シティーランブラーズのオールドタイムを目指してロスト・シティーランブラーズというバンドを結成。 渡米もしてニューヨークの最新フォーク状況をそのまま神戸に持ち込んだ人だ。当時、神戸アメリカ民謡研究会を運営していた渡辺敏雄と高校生であった渡辺三郎もツルハシを持って郭氏住居を壊してロスト・シティー(以降ロスト)に模様替えした事を覚えている。  初代の経営者は数々のコンサートを開いていた真島謙治氏、2代目に加藤こうぞう氏。 その間ロストの売り物は連日のライブ演奏で出演は後に長くロストを経営する野崎謙二氏(bj)と田淵章二氏(f)だった。神戸という土地柄から外国船員が多く、彼等の演奏はたちまち大評判となりロストは一躍神戸名所となった。もちろん折からのフォークブームも幸いしてるがロストを有名にしたのは野崎、田渕両氏の素晴らしいブルーグラスが異国の夜を過ごす外人達に熱狂的に支持されたからだろう。さて、2代目店主加藤氏の時ロストの大看板である野崎、田淵の両氏が渡米を決意。1967年の事で渡米と言っても現在とは比較にならない決死の覚悟だったようだ。東のオザーク・マウンテニアーズと並んで日本ブルーグラスの草分け的存在だった西の立命館大学サニー・マウンテン・ボーイズの創始者でありバンジョー奏者としても草分けである野崎氏と1960年代の人気番組=大学対抗バンド合戦で並み居るジャズの精鋭を抑さえて全国優勝を飾った桃山学院大学ブルーグラス・ランブラーズの田淵氏の二人が揃って渡米する。(田淵氏は渡米後米国に住み今なお第一級フィドラーとして活躍中)
さて、大看板を失ったロストの運命はいかに...!?
廖・李 登場

 ここで白羽の矢が立ったのがロスト誕生以来ウロウロとしていた渡辺兄弟であった。
 渡辺敏雄は野崎、田淵両氏の演奏時にはギターやベースをすでに担当していたし、前出の郭氏のロスト・シティー・ランブラーズでもギター奏者としてメンバーに入っていた経験がある。(因みにその時のメンバーに西岡たかし(bj)という人もいた) 又、彼はクロウハンマー奏法のバンジョー名手としても知られておりフォーク・クルセイダーズの加藤和彦氏も彼に教えを受けていたという記憶がある。
渡辺三郎は上記の様な抜群の環境の中で知らぬ間にバンジョーを弾いていた。年少者の役得とでも言おうか、野崎氏や兄敏雄の努力の果てがスタートであったワケである。 野崎、田淵両氏の意向で渡辺兄弟は両氏の後釜として知らぬ間にハメられていた!? ある日、渡辺兄弟の前に二人の神戸在住中国人が田淵氏に伴われて現れた。 「この二人、桃大ランブラーズの一年やネン。神戸に住んでるし一緒にロストでバンドやって鍛えたってや」と田淵氏。そして彼等は渡米した。 その二人は後にジミー・アーノルドの有名なデビュー・バンジョー集に参加したり本邦初のブルーグラス専門誌=ジューン・アップルの創始者となる廖学誠と、後に谷五郎のプロレス・パートナーとなり宝塚フェスで大暴れをする事になる李健華であった。 これで、とにかくバンドが出来上がった。ブルーグラス45の第一歩である。渡辺敏雄(bs)、李健華(g)、廖学誠(f)、渡辺三郎(bj)の4人である。 記憶に残る最初の仕事は神戸国際会館の上にある映画館、西部劇映画の合間のプロモーション演奏だったと思う。
その年の夏、中学生にしか見えない大学生二人と生意気な高校生はロストの屋上でとてもよく練習をした。主に生意気な高校生の指示によるフラット&スクラッグスのオンパレードだった。
大塚兄弟登場

しかし、ロストで野崎、田淵両氏の穴埋めには余りにも経験不足の4人組だった。 廖はクラシック出身という事もあり、すでにライブでは重要だった曲=オレンジやモッキン・バードは完全にマスターしていた。しかし、その他のレパートリーがあまりにも少なかった。 そこで同じ高校生という事で渡辺三郎は山口さとし(g)や大塚章(m)等とも遊び始める。山口、大塚ともに私と同様に兄を持つ身だった。話はよく合う。幸いに(!?)山口の兄(現シャギー・マウンテン・ボーイズd)は東京だった。が、しかし、大塚の兄は神戸大学にいた。ジョッシュ大塚その人だ。
この大塚兄弟は強力だった。弟の方はカントリー・ジェントルマン・フリークでまだ手に負えたが兄には全く歯が立たない。とにかく何でも知っているのだ。まるでブルーグラス・ジューク・ボックスといった感でどんな曲でも一発で唄ってしまう。ロストの様な場所ではまるで水を得た魚だ。どんなリクエストでもこなしてしまう。メロディーの一部でも分ればどんな曲でも演奏してしまうと言われたブルーグラス45は大塚兄弟の加入で完全なものになった。1967年以降の事だったと思う。
メンバーはジョッシュ大塚(g)、大塚章(m)、そして渡辺敏雄(bs)、李健華(g)、廖学誠(f)、渡辺三郎(bj)の6人となった。
だが、バンド名はまだなく、ロスト・シティー・ギャンブラーズやキャッツ、ランブラーズ等々と名乗っていた。「兄貴はホンマはバンジョー弾きやネンデェ。オヌシがおるからギターで唄うとるんやデェ」というのが大塚章の口癖でこれを聞くと私は常に「ムッ!!」となる。とはいえ、私は大塚兄弟から実に多くの事を学んだ。
ブルーグラス45

こうしてブルーグラス45は出来上がったのである。ブルーグラス45という名前はブルーグラスが様式として確立された1945年を意識して名付けられたもので誰の発案であったかは今となっては記憶にない。(ジョッシュ注)
我々は実に様々な所で演奏をした。米海軍空母の格納庫、あやしげな外人バー、ポート・ジュビリー、米軍呉基地、神戸まつり、大阪マンハッタン、大阪空港米人パイロット・クラブ、各種パーティー等々。
そしてロストでの演奏とを通じて我々はタフなバンドに育っていった。聞く人をとにかく喜ばせると自分達が楽しむ事の重要な2点を両立させた。同時に聞く人にパンチを与えるインパクトの重要さもアメリカ人を日々聴衆にする事によって得た。
1960年代、PAシステムも70年代後半以降のように成熟してない時代だった。インパクトも指先だけでは不十分だから体全体で出す必要があった。なおかつ生ででも全体の音がバランスをとれてなければならない。演奏回数こそもっとも重要な練習だった。
もちろん練習の為に集まるなどという記憶はレコーディング制作時以外にはまずなかった。実にエーカゲンな状態で音楽を片っ端からやっつけていたと思う。 当時の紹介文にも「ブルーグラス45は各大学現役メンバーの寄せ集めで練習は全くなし、本番に全員が集合し即興で音を出している事であります。その代わり各大学で、また個人的に多くの曲をマスターしているためレバートリーは1000曲を軽く超しています。しかし各バンドの規約等の為に一般のコンサートにはほとんど出演せず…」とある。 因みにジョッシュ大塚は神戸大学ブルーグラス・トラベラーズ、大塚章は関西学院大学ヒッコリー・ホローズ、廖学誠と李健華は桃山学院大学ブルーグラス・ランブラーズ、渡辺敏雄は大学ではバンド活動がなかったが前出のロスト・シティー・ランブラーズや野崎謙治のバックウッド・マウンテニアーズ、渡辺三郎は三田学園高校ブルーリッジ・ランブラーズを経て桃山学院大学ブルーグラス・ランブラーズの交代要員(正式メンバーに欠席ができるとそれを埋める役)をそれぞれ経験している。

1970年代のはじまり

 1970年前後は日本の若者文化にとってとても重要な時代だったと思う。そんな中に青春を過ごせた事は大変ラッキーだった。
 70年安保、それは60年の時(体験してないが)とは比較にならない大きな意味をもっていたと思う。
70年のそれは政治的な意味以上に若者の選択の権利を含んでいたと思う。60年代後半から公民権、ベトナム、ヒッピー、自由、平和等々が世界的なムーブメントとなっていた。
現に我々は学内闘争で学長や教授をつるしあげ、あらゆる権力に反対した。
おかげで大学の1、2年生の時には先輩の楽器持ちをしたにもかかわらず3、4年生になった時には後輩に重いバンジョーを持たす事ができなかったという人も多いだろう。 軽音学部というタテ社会が急速に崩れたのもこの頃だ。ミュージシャンたる者、人間の愛を唄う者、体育会的タテ関係にはふさわしくないだろう。 ブルーグラス45が始まった頃にビル・モンローのブルー・グラス・ボーイズを離れたピーター・ローアンがアース・オペラでデビッド・グリスマンと共にサイケデリック・ロックの世界に没入したり、リチャード・グリーンとシー・トレインでロック・ヒットを飛ばしたりしていた時代だ。極東のブルーグラス・ミュージシャンもウカウカしてはいられなかった。 そんなリアルタイムのアメリカ情報はロストにいればどんどん入ってくる。ロストの常連船員にロサンゼルスのアッシュ・グローブを本拠地にしているジェラルド・ミルスという最先端にいたブルーグラス・ファンもいて最新のライブ・テープをどんどんと持ち込んでくれたものだ。 ともあれ1970年、あらゆる既成の価値観は音を立てて身の回りで崩れ去っていった。そんな中で懸命にブルーグラスしていた我々6人が動く。 1969年12月14日、大阪市音楽堂でブルーグラス45は自費制作のレコーディングに取り組む事になる。 1970年に発表した我々の記念すべき最初のアルバム"Run Mountain"(Down Home 4501)である。 ブルーグラスのトラッドを厳しく見つめて我ながら感心する選曲とアレンジで日本よりも米国で高い評価を受けた作品だった。米国でもマック・マーチンぐらいしか取り上げないであろう渋めのトラッドや、よく知られている曲でも非常にトラッドに根ざした意外なアレンジで確かに今更ながら選曲した渡辺敏雄とアレンジのジョッシュの凄さを感じる。 また、サム・ブッシュが今なお我々を紹介する時に持ち出してくる4分の5拍子のジャズ曲"Take Five"、いまだにタブを所望される滝廉太郎の「花」をもじった"Cherry Blossom Special"(注:タブは書けないし読めない)等々、らよくできたアルバムだ。 ただこの録音で借り物であったた当時最先端のフェンダー・アーティストのヘッドが破れており、不本意な音がしている事を当時の持ち主現梅田ナカイ楽器の清水靖之氏にお詫びしておきたい。 また、勿論このアルバムはすでに廃盤となっている。 ジャケットもフォークウェィズや初期のカウンティを気取って風景画のイラストを手作業で貼り付けていく。こうして創った快感が後にレッド・クレイ・レコードやB.O.M.を始める事となる。 とにかく、このアルバムが米国カウンティ・セールスの通販から米国内に流れた事がブルーグラス45の次の大きなステップへとつながっていく。

EXPO '70, OSAKA
高度経済成長を続ける日本のビッグ・イベント、大阪万国博覧会が1970年、大阪千里丘陵ではじまった。
ヒッピー文化とは正反対のこの大イベントでブルーグラス45も営業活動に走り回った。我々は主にサンフランシスコ館で定期的に演奏しながら様々な所に出没していた。
ただ最近のようにアメリカから大挙してミュージシャンが押し寄せるという様な事はなく、記憶に残っているのはイアン・タイソンがグレート・スペクル・バードを連れてきてカナダ館でドンチャン騒ぎをした事、
そうそう月の石があるアメリカ館でも誰かと一緒に演奏した事ぐらいだ。日本人全員が万博を訪れたそうだから誰かに僕たちの営業を見られてしまったかも知れない。 この大阪万博見物に家族連れでやって来たのが当時ブルーグラス・インディーズの急先鋒として活躍していたレベル・レコードのオーナーであるチャールズ、フリーランドだった。 もちろん、彼の主な目的は日本キング・レコードとのライセンス契約やアーティストの来日交渉等、ビジネス旅行でもあった様だ。
フリーランド一家はキング・レコードの紹介で万博見物を兼ねて神戸のロストシティーに遊びに来たのだ。我々は当然の如く歓迎の演奏をした。盛んに経営者である野崎氏と話している。 我々の演奏が終わった後、ディックと野崎さんに呼ばれて我々はテーブルを囲んだ。「アメリカに来ないか?」、突然である。1970年の夏、ブルーグラス45に"とんでもない話"が持ち上がった。 この後のドタバタは割愛しよう。ただ、我々のアメリカ行きに並々ならぬ尽力をいただいた当時のロストシティーの野崎謙治氏には改めて心から感謝の意を表したい。
本稿の前編でも述べたように(J注: この文は2回に分けて掲載された)、僕個人、そしてブルーグラス45にチャンスを与え育てたのは間違いなくロスト・シティーという神戸の下町にある小さなコーヒー・ハウスだった。 1971年6月、ブルーグラス45はインディアナ州のインディアナポリス空港に降り立った。20年前だ。 当時はまだ洋行という言葉さえ生きていた時代だ。アメリカについての情報も乏しく、まして我々の目指す南部は全く未知の所だ。心細さはなんとかメンバー5人の珍道中というほのかなイメージでカバーしたつもりでいた。
ただ、もう一人のメンバー=李健華が台湾留学のため参加できず、珍道中の核が欠けていることは残念だった。さ インディアナポリス空港でキョロキョロしていた我々を一度に明るくしてくれたのがエド・フェリスだった。 我々を空港へ出迎えに来てくれたクリフ・ウォルドロンとニュー・シェイズ・オブ・グラスのベーシストであり、我々にはカントリー・ジェントルメンのベーシストとして写真では憧れていたエド・フェリス。彼が我々を見つけるなり、いきなり手を不思議に交差させて「シュワッ!!シュワッ!!」とワケの分からない事を言っている。
キョトンと見つめる我々に「アールトラマン、アールトラマン」と言っている。そうだ!! 「ウルトラマンだ!!」と気付いた時の我々の嬉しさ、分かっていただけるだろうか? 一気に緊張が解け、この見知らぬ土地と環境が身近になってしまった。 空港からクリフの運転するキャンパーが南に向う。車の全面が一杯ガラス張りになっていて日本では見た事も感じた事もない解放感が印象的だった。 クリフとエドの他に我々を迎えてくれたのはマイク・オルドリッジと兄のデイブ、ベン・エルドリッジ、ビル・ポッフィンバーガーの6人だ。
我々が向っているのはビーン・ブロッサムだ。そう、ビル・モンローのフェスなのだが我々には全くピンと来ない。ビーン・ブロッサムという名もブルーグラス・フェスティバルという状況も、それがどんなモノなのか、我々は全く分かっていないのだ。
ビーン・ブロッサム1971
ニュー・ポート・フォーク・フェスティバル、そしてウッドストックと続いた若者のアウトドア・フェスティバルのムーブメントの波がブルーグラスにやって来た最初の年でもあった1971年のビーン・ブロッサム。まだまだピークではないが急激な盛り上がりを見せ始めていた年である。
まだアイビーから抜け出していない日本から、いきなりブルーグラス・フェスの真ん中に投げ出された我々は面食らってしまった。

田舎のオジサンやオバサン、ヒッピー、ヘルス・エンジェルス、種々雑多な人間が幸せそうにブルーグラスを楽しんでいるのだ。
アチコチでジャムを取り巻き、手にビールを持った人達。ステージだけがフェスじゃない。練習やジャムにどれだけギャラリーを集めるかが彼等の楽しみでもあるのだ。
我々も出演時間が迫ってきたので練習を始めた。物珍しさも手伝ってたちまち黒山の人だかりだ。しばらくするとマンドリンを手にした紳士が人を割って入ってきた。エッ!! ビル・モンローだ。夢にまで見たビル・モンローだ。

彼がおもむろにマンドリンを弾き始めた。"ローハイド"だ。無我夢中でついていく。
その後20年間、色々な所で彼に会いジャムやツアーに参加して演奏もしたが、この時の興奮に勝るものはない。
また、この年のビーン・ブロッサムの最大のイベントは約25年ぶりにビル・モンローとレスター・フラットが仲直りをして共に唄うというもの。
そんな情報も全くなかった我々。これも忘れられない光景だった。その時を待つ異様な静けさと緊張感がステージ周辺にただよっていた。
そしてビルに紹介されてレスターの登場。

レスターのナッシュビル・グラスの演奏後、レスターに紹介されてビルがレスターのバンドに参加して唄い始めるとステージ前でマイク・シーガーやピート・カイケンダル等々の著名人達がカメラを持って走り回るという異常な興奮だ。あたかも1971年以降のブルーグラス・フェス大隆盛を暗示するかの様な光景だった。
ビーン・ブロッサムではこの年はじめて外国からバンドが参加するという米国ブルーグラス・フェス史上に残る出来事があったワケだ。

 それは我々、ブルーグラス45と、ニュージーランドから参加したハミルトン・カウンティー・ブルーグラス・バンドの2つのバンドであった。

カントリー・パッケージ・ショウとオープリー

ブルーグラス45のアメリカ・ツアーはレベル・レコードのオーナーのディック・フリーランドが全てのブッキングを引き受けてくれた。ディックは我々をカールトン・ヘイニーに紹介した。カールトンは1965年に最初のブルーグラス・フェスを開いた人でもあるが、何といってもマール・ハガードをはじめ超大物カントリー・アーティストのブッキングで有名な人だ。 彼は「カントリーで稼ぎ、ブルーグラスで使い果たす」という美学(!?)を実践し続けた人だ。 昨年のIBMAの第1回ブルーグラス・アワードの特別功労賞を受けた人でもある。
カールトンのブッキングで我々はフィラデルフィアやリッチモンドの大ホールでカントリーのパッケージ・ショウにも多く出演した。そのショウはコンウェイ・トゥィッティー、ロレッタ・リン、ブルーグラス45、そしてマール・ハガードという出演順で中には数万人の観客を集めたショウもあった。
また、ライマン公会堂で開かれていたグランド・オール・オープリーにもカナダへの途上に出演した事を憶えている。

 ただ、各地のブルーグラス・フェスでの印象がそれぞれあまりに強烈だった為にカントリー系の様々な出来事にほとんど興味がなく忘れてしまった。

メリーランド州ハイエッツビル

20年もたった今なお (J注:この文は1991年に書かれた)日米を問わず、時折見かけるブルーグラス45のLPがある。
我々にとっては2枚目のアルバム"Bluegrass 45"(Rebel 1502) は我々自身が米国ツアー中に売る事を目的にした為に、ビーン・ブロッサムから本拠地となるワシントンD.C.郊外に到着後間もなく録音したものだ。米国のレコード業界では現在もアーティスト自身がツアーをしながら売る事が鉄則となっている。我々は実に良く売った。

 ワシントンD.C.郊外のメリーランド州ハイエッツビルのアパートの最上階が我々の住み家となっていた。当時、高所恐怖症を自任していたダッフィをスキヤキ・パーティーに招待した時の顔は忘れない。
ロードに出ない間は30分位で行けるホワイト・ハウス周辺を観光したり、買い物をしたり、アメリカ生活を心ゆくまで楽しんだ。
また、D.C.のダウンタウン=ジョージ・タウンには当時、まだカントリー・ジェントルメンの本拠地であった"シャムロック"というバーがあり、我々も飲みにいったのか演奏したのか、とにかく店の様子は記憶がある。

我々の3枚目のアルバム "Caravan"(Rebel-1507) はいつ録音したのか定かではない。
しかし、このアルバムをプロデュースしてくれたのが当時音楽から引退していたジョン・ダッフィだった。彼は我々にブルーグラス、というよりも音楽のノウハウ、そしてレコードの意味を教えてくれた。彼から教えられた事は多い。
逆に我々の録音に付き合った事によってジョンのミュージシャンとしての虫が再び頭をもたげ、数ヶ月後の新バンドを結成するきっかけとなったと言う話もある。その新バンドがセルダム・シーンであるという。かなりマユツバであるが。

もちろん、フリーランド一家には言葉に尽くせないほどの世話になった。奥さんのシーラ、息子のロニー(彼は現在第一線のスタジオ・エンジニアとしてお手持ちのアルバムにきっと名前がクレジットされているだろう)、そして可愛いタミちゃん。
今から丁度20年前の今日の事を想い出しながら書いてる。
でも20年前の自分を想い出すには余りに強いカルチャー・ショックの連続でどうも話がまとまらない。それに、当時のアメリカの話をしても何だか夢物語の中にいる様で読者には面白くないだろう。

でも、レスター・フラットと2人だけでしたジャム、アール・スクラッグスやエディー・アドコックやカール・ジャクソンから受けたバンジョーの手ほどき、サム・ブッシュやトニー・ライス等との出会い、そして何よりもサザン・ホスピタリティーと呼ばれる南部の人達の暖かいもてなし。
様々な想い出が浮かんでは消えていく。

1971年の夏に経験した全ての事がそのまま僕の人生になっていった。

 レベル・レコードで学んだレコード制作のノウハウはレッド・クレイ・レコードに、当時ニューヨークにあったカウンティー・セールスから学んだ通販方式はB.O.M.ニューズレターに。そして何よりも新鮮だったブルーグラス・フェスは宝塚フェスに…。
20年間、1971年の暑い夏の夢を食べながらここまでやって来てしまった様だ。

ムーンシャイナー誌(1991/7 1991/8)より転載

執筆から25年が経過しています。(2016)
また節目などには集まりツアーなどもこなし、来年2017年は結成50年目にあたる。

Close this Window
I BACK I
|BOM HOME PAGE | ご注文|NEWSLETTER INDEX |